貧しき薔薇(カトリック信徒のブログ)

カトリック教会についてのブログ

差別と原子力

情けないことですが、私はつい最近知ったのです。

あるいは神が私の目を覆っていたのかもしれません。

しかし知ってしまった。覆いがあったとしても外されたわけです。

 

第7回 いのちの光 3.15 フクシマ

2020年3月に計画されていた、カトリック教会で司教を交えて講師を呼び行われるこの集まりが、コロナ禍によって中止されました。

第7回ということは過去6回あったわけです。

 

第7回 いのちの光 3.15 フクシマ

~3.15から9年フクシマが背負ってきたもの伝えつづけるもの~

 

副題その他もろもろから香る、なんという鈍感さだろうか。いまこのタイトルを見ても私の胃はキリキリと痛むようだ。過去にはチェルノブイリから何年、フクシマから何年と並列にしたこともあるようですね。では私は、チェルノブイリについても語らなければなるまい。差別と原子力という切り口から、おこなってみよう。

いま8月ですから5か月近く温めました。

 

昨今特に声が高くなっています。

「カタカナ呼びのフクシマは差別ではないか」という論点です。もちろん、差別ではないという意見もある。差別ではないという意見の論理をひとつ紹介してみましょう。

 

カタカナ呼びというのは必ずしも蔑視ではない。

世界のキタノ、クロサワというような時、そこに蔑視はない。

 

なるほど、もっともらしい意見です。

ではその世界のキタノの逸話から考えてみましょう。彼は映画監督北野武として高名になる前に既に日本では有名でした。コメディアン・漫才師ビートたけしです。日本人はほぼ知っています。

映画監督として名声が高まるなか、西ヨーロッパで彼がファンサービスのためにと愉快な振る舞いをした時に何が起きたのか。アインシュタインに近い扱いを受けたそうですね。天才にありがちな奇行であって、笑うような種類のものではないという上品な振る舞いの中に包みこまれてしまった。コメディの天才、ビートたけしにも容易に乗り越えられない大きな壁がそこに出現しました。

世界のキタノという言葉を思えば、そこには「突如として現れた、天才的な映画監督」という意味が強調されているのがわかります。それは日本語の文脈で語られるとき「海外ではそう思われている」というような含意がある。毒ガス漫才と言われたツービート時代、ひょうきん族たけし軍団フライデー事件というようなことは世界のキタノという言葉のイメージには、ほぼ入っておりません。世界のキタノという言葉からは、わざと愉快な振る舞いをする眉をひそめられる種類のコメディアンの印象が薄らいでおりだからこそ、天才の奇行という誤解と腫物扱いが生じてくる、その原因がどこか察せられるような意味になっております。

 

ではヒロシマはどうだろうか。このカタカナ呼びには間違いなく原子爆弾のイメージがあり、そのことを否定するのは不可能です。こう書いたらどうだろうか。

崖の上のポニョの舞台の海はヒロシマの海をモデルにしている」

どうしてカタカナにしたのかと思いますか。まったく思いませんか。

このカタカナに違和感があるのであるなら、フクシマはどうでしょうか。「海外から見れば」原爆投下地であるヒロシマ原発事故の起きた土地であるフクシマ、公平中立のようでいて詳しいことは何も知らないような視点が、そこにあります。

ヒロシマという時、平清盛豊臣秀吉を意識しますか。日清戦争は。県立図書館はヒロシマという言葉のイメージに入りますか。あそこはありふれたような、原子爆弾と無関係のような県立図書館ではないですよ。フクシマと言う時はどのような意味が強調され、また薄まっていますか。

たとえ差別や差別の意図がなかったとしても、少なくともこれは認めなければならない。意味の強調があり、強調したのだから偏りが生じる。その偏りは避けられないし、その偏りは意図したものであるはずです。選択肢がひとつしかなかったわけではなく、他のいくつかのものから選んで表現したのだから必ず意図があります。

だが、その使用の意図を妄想することに意味などありません。

だからチェルノブイリに話をうつしましょう。

 

チェルノブイリ、日本語でこの言葉がどのように使われて実質どのような意味であるのか。そもそも偏っていない言葉があるでしょうか。ありません。どこかを強調し、どこかを薄めており、別のものと区別している。では日本語のチェルノブイリはどのようであるのか。何を強調しており、何が薄いのか。

ウクライナの歴史がその言葉に背景として、あるでしょうか。

小麦の生産があがる豊かな土地、農民や酪農家。黒海北部の漁師や行きかう商人。パンと肉や魚や野菜のスープ、ボルシチに代表されるウクライナ料理。あるいはコサックのような軍人たちや、政治を行う貴族たち。チンギスハンの影響や、オーストリアロシア帝国との関係。民族意識の高まり。社会主義ソ連時代の苦難につぐ苦難。

電力化・工業化というソ連の目標、共産主義と革命の代表、新しい階級であった都市労働者、それと異なる伝統的な農民への差別と、その農民が作った穀物の輸出による外貨獲得(それは富国強兵につながる)という構造。そんな農民への差別からの意図されたような飢饉。民族浄化

それらを背景としたチェルノブイリ原子力発電所。事故を起こす前のチェルノブイリ発電所。大規模で近代的な電力生産施設というものがソ連にとってどういう意味を持っていたのか。その運営に携わる人々、その町ごと機密であったような場所。そこで起きた事故。その影響の広がり。

さらに現在ロシアと対立するウクライナ。その中で廃炉作業に関わる人々の思いはどのようなものだろうか。これからの国として、力強く生きようとしているウクライナ

 

日本語の「チェルノブイリ」にそうした意味は含まれていますか。あると言う人は、まったく恥知らずの嘘つきです。日本人は平均的にいって、そこまで意識してチェルノブイリと言ったりはしない。ウクライナが日本で大きく注目されたのもつい最近ではありませんか。

 

そして、フクシマとチェルノブイリと口にする人々。

大熊町が他国から見えないような土地でしたか。今はどうですか。常盤線の再開が話題になりました。電力化は地元の農民を踏みにじるようなものでしたか。冬季などの収入を安定させたというようなものだったようです。

都市労働者のようになろうとしない「科学的でなく迷信深い」(それはキリスト教の信仰があるという意味でもあった)農民の否定から、計画的に飢饉が起こされましたか。その上の外貨獲得のため、民族浄化をされながら強制的に農業に従事させられたのですか。

工業化による富国強兵、ソ連の冷戦の勝利を目的とした電力生産の必要を満たすべく作られた発電所が、既に多く苦しんでいたウクライナ人の土地で事故を起こし、ソ連がなくなった今も影響が残る。ウクライナ人は、いまも当然生きております。

 

福島県民ら東日本大震災及び原発事故の被災者の受けた傷を軽視するわけではありません。大きな傷です。しかしチェルノブイリと同じ種類の傷だと言えるでしょうか。

福島県民とウクライナ人の両方に対して、まったく手ひどい失礼ではありませんか。どちらの存在も尊重しておらん。差別ではないかと疑問を呈されて当然だという点に、少なくとも私は疑問の持ちようがありません。

 

福島県民は「チェルノブイリのような」という形容を背負わされなければいけませんか。そんな必要があるはずがない。日本人は否定したとしても、どこかそれをハッキリ知っていたとしても、では海外で「フクシマ」というのはどういうイメージができましたか。それは事実に基づいたようなイメージですか。誇張されたようなものですか。

 

第7回 いのちの光 3.15 フクシマ

~3.15から9年フクシマが背負ってきたもの伝えつづけるもの~

 

チェルノブイリのようだった」というような「歴史」(それはおそらく偽史であろう)を伝え続けるべきですか。彼らが背負っている物は、貴方たちが作ったものではないですか? 重荷を増やしていませんか。あの重荷をどうしたら減らせるだろうかと頭を悩ませていますか。その上でこういう言葉が出てくるのか。私にはその心のありどころの見当がつきません。

 

あれらの集まりには、IWJやおしどりといったあたりが呼ばれていることが隠されずに公開されています。

それらの人々への、あるいは誤解かもしれないその批判や、あるいは彼らへの怒りや憎しみを、私たちのカトリック教会は共に背負っていくつもりですか。

私たちは全ての人の苦しみを共に背負っていくだろう。その通りです。ではフクシマの9年ではなく、1500年にわたるような福島県と今呼ばれている土地のその人々の全てを背負ってはいかがですか。

 

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教皇様の来日の時にもこのような懸念が生じました。

 福島県には約190万人、いわき市郡山市にはそれぞれ約30万人がごく普通に生活している。その中には地震津波原発事故で大きな被害を受けながら、立ち上がり、偏見や風評に耐えながら福島で生きていくことを選択した人々が多数いるが、そうした人々には今回スポットライトはほとんど当たらなかった。

 これが2019年11月末の話。いのちの光が中止されたのが今年3月。開催できなかった。惜しまれたでしょうか、きっとそうです。そして8月、教皇様の言葉もありました。訪日の時の言葉を繰り返しておられます。

 

誰か一人でも、私たちの教会の教役者が軌道修正を求めないまでも、軌道修正をしないまでも、このような懸念が存在することに、この半年、言及しましたか。サマリア人が助けるまで倒れていた人のように、存在しないことになってやしませんでしたか。何か答えましたか。少なくとも私は、まだ知りません。あったとしたら是非教えていただきたい。